アラフィフ世代の我々にとって、ヒデキはやっぱり特別な存在だったと改めて思った。
物心ついて、初めてカッコイイと思った曲は「情熱の嵐」だったと思う。
また、我々の世代は小学生の頃、「激しい恋」の出だしを替え歌で、
♪やめろと言われて桃太郎さん
♪今では遅すぎ太郎さん
♪激しい恋の風に~巻き込まれたら西郷さん
というのが流行っていた。
そして、当時の日本の子供たちにとって、カレーはやっぱり「ククレカレー」のキャンディーズと「バーモントカレー」のヒデキに尽きる。いずれもハウスの商品だ。子供ながら、おいしいカレーにはリンゴとハチミツが入っていることをヒデキは教えてくれた。
私が小学校4年の時、隣のクラスの担任が女性の先生で、熱狂的なヒデキのファンだったのを思い出す。
そして、70年代後半、ディスコブームに乗ってザ・ベストテンでも記録を作った「YOUNGMAN(YMCA)」。この曲に対抗してか、海援隊は「JODAN JODAN」でYMCAを意識した振り付けをしていた。
昔は芸能人水泳大会という特番があったが、ヒデキはブーメランパンツでへそ下からつながる体毛が刺激的だった。後にもんたよしのり作の「ギャランドゥ」がヒットして以降、我々の世代はその毛を”ギャランドゥ”と呼ぶようになった。
ヒデキの訃報を聞いて、WALKMANに入っているヒデキのヒット曲を改めて聞き直してみた。
「ブーメランストリート」「ブーツを脱いで朝食を」「ジャガー」…そして、近年、明石家さんまさんが長澤まさみに教え込んだギャグの元ネタになっている「ブルースカイブルー」、今でも歌える曲ばかりだな。
新御三家はそれぞれで「カックラキン大放送」のレギュラーを務めた時期があるが、さすがにコントに関して五郎やひろみに比べるとあまりうまくないというか、お笑いの「間」の感性が二人よりは無かった気がする。
80年代に入ると、ニューミュージック系のアーチストの曲を歌い始める。もんたよしのり、横浜銀蠅、小田和正、吉田拓郎…。「ガール3部作」と呼ばれたものもあったね。そしてワムの「ケアレス・ウイスパー」のカバー「抱きしめてジルバ」。郷ひろみは「ケアレス・ウイスパー」のタイトルで日本語カバーをしたが、セールス的にはヒデキの圧勝だったと思う。
河合奈保子はヒデキの妹としてデビューし、その2代目が石川秀美、3代目が財前直見だったと思う。
球場コンサートなんかも多かったと思うし、当時は土日の昼の時間帯とかで特番で放映されていた気がする。ライブではハードロックも取り上げて、レインボーの「アイ・サレンダー」を知ったのはヒデキのライブでの歌唱だった。後にシングルでグラハム・ボネットの「ナイトゲーム」を出したくらいなので、ヒデキの歌唱スタイルにハードロックの曲調は合っていたかもしれないな。
病に倒れてから、かつての絶唱スタイルは難しく、しかも2度目の脳梗塞以降は非常に大変だったと思う。
最後にヒデキの映像を見たのは、金スマだったかなぁ…芳村真理さんが久々にテレビ出演した際に直接会いに行った回だったと思う。活舌があまり芳しくなく、リハビリも相当苦しそうだったが、それでもヒデキのようなスターが一生懸命リハビリしている姿は、同じ病の後遺症と闘っている人に勇気を与えていたはずだ。
報道によれば先月の25日にご家族と団らん中に意識不明になってから、亡くなるまで意識が戻らなかったそうだ。
我々は十代の多感な時期に、全盛時代であったヒデキの姿を思い出として記憶にとどめているのは幸せかもしれない。
ありがとう、ヒデキ。
足跡を残します。
「ヒデキ・水泳大会」で検索をしてたどり着きました。
おそらく同世代でしょう、懐かしい気持ちも少なからず持ちながら拝読しました。
カックラキンについては同意見です^^
おじゃましました。