結論から言えば、「いじめ」が完全に無くなるというのはあり得ない。なぜならば、強者が弱者を攻撃するのは動物本能の一部であり、人間も動物の一種であることを考えればその行動は、いかなる教育論をかざしてもきれいごとでしかない。
ただし、人間は本能を抑制するために「理性」という概念を持っていて、それは家庭に於ける「躾」と、学校という集団の中での「教育」の両方が機能することで成長過程にある子供に育まれるものである。
ここ最近、いろいろな報道で、教育問題に関する議論がされるが、「いじめ」に関して学校教育だけを議論している限り何も解決はしないだろう。
冒頭に書いたように、強者が弱者を攻撃するという構図は、動物の本能であり、人間と言えども有史以来存在するものである。問題は、その加減というか程度というか、例えるならば漫画「ドラえもん」に登場する「ジャイアン」と「のび太」の関係までなら問題にならないことが、現在の世の中で起きている実際問題はそれ以上の分別がつけられずにまかり通っていることであろう。
こういうのは学校教育以前の問題だと思う。物の憐れみや弱者を労わる心というのは家庭内教育(=躾)の問題であり、学校教育の範囲というのは、集団生活における個の抑制と他人との調和であるから、家庭内教育がちゃんとされていることが前提である。
この家庭内教育の部分が未熟な子供に対しては、昔は学校の先生がその代わりを務めることがあったから、我々ぐらいまでの世代は、先生に引っぱたかれたりすることがあったし、親もそれを認めていたのである。ところが、自分の責任を学校に押し付ける親が出てきたり、あるいは、サラリーマン間隔で教師という職業を選択する者が出てきたから、いつしか本当に必要なものよりもの表向きの体罰禁止とかそういうもので体面を繕ってしまったからどうにもならなくなったように思える。
学校を週休2日制にする意味なんてあるのだろうかと私は思う。ゆとり教育と称したところで、より偏差値の高い学校に進学することが善しとされる状況では、進学塾の方が重視されている以上、学校に行かなくなった代わりに塾に行くのが当たり前の世の中になってしまった。昔は、ガリ勉か、あるいは習熟の遅い子が学習の補完のために行くぐらいだったのに、今は誰もが行くっていうのはどういう訳だ?
それは同時に教師にも言える。「先生」と言う敬称は、私は教師と医師にしか使いたくないのだが、それだけ崇高な職業でもあるからである。片や子供たちに未来へ歩むための道筋をつける者、片や人間の命を預かる者である。会社員は、自分および家族の生活のために、自分の能力と時間を引き換えに報酬をもらうものであるから、必ずしも仕事に情熱や使命を感じなくても与えられた義務と責任を果せば成立する。
しかし、教師や医師というのは職業であるが、会社員と同じような感覚ではやってはいけない仕事であり、自分の生活を大事にしたいなんていう考え方では、全うできない仕事でなければならないと思う。
教えを受ける子供にとって、教師の言葉や行動はその後の人生や考え方にも大きく影響を与えるものだ。私自身、学校と名がつく場所を卒業して10年以上経っているから、当然、中学校や小学校に関しては20年、30年経ってたりするが、やっぱり「先生」はいつまでたっても「先生」である。私の時代の教師は、やっぱり、自分の寝食の時間を削ってでも生徒のためにいろいろとしてくれた記憶があるし、そういうことに厭わない人が教師になっている人が多かった。だから、逆に、卒業して10年、20年経っているにも関わらず、未だに個人的に教師と認めたくない人もいたが、担任になるような人にそういう人はいなかった。
さて、そういう環境を踏まえて「いじめ」の話に戻すが、「いじめる者」と「いじめられる者」の他に「周りで静観している者」というのが存在する。この第3の存在が一番多いが、考えようによってはこの人たちも加害者になるのである。幸いにして「いじめられる者」にはならなかったとしても、この第3の存在であった人は圧倒的に多いだろうし、自分たちは加害者の一部でもあるという認識をしている人は少ないだろう。
なぜ、静観するか?答えは簡単で、余計なことをすれば自分がその立場になるからである。標的があるうちは自分にふりかからないから。こういう基本構造があるから、問題は難しいのである。
今の子供たちにアンケートをとると、「いじめ」は無くならないと言う。また、「いじめる側」よりも「いじめられる側」に問題があると冷静に答える。その答えを聞いて、いろいろとテレビ番組で所謂、評論家や文化人がああだこうだといっているが、私は、子供達の答えは基本的に正しいと思う。誤解されると困るが、「いじめ」を肯定しているのではなく、人間の本能からくるものである以上、理屈をつけた評論家の意見よりも子供の素直な意見の方が的を射ていると思う。
自然の世界を考えても、必ず強者と弱者が存在する訳で、強者は弱者との比較で自分の存在を確かめる。だから、「いじめられる側」は自力で這い上がる強い心を持たないとその立場から抜け出せないのである。前述したように、第3の存在はリスク回避の概念から安全なところからは意見は述べても、危険な領域に自分自身で踏み込むようなことはしない。
厳しいことを言っているように聞こえるかもしれない。でも社会に出れば遅かれ早かれ同じような問題はあるのである。他人に頼るということを前提にしている限り、何も解決しない。自分の人生だからこそ、自力で戦っていかなければならないし、そうできるように意志を強く持たなければいけないのである。
本当に強い者は、決して弱い者いじめなどしない。そんなことをする必要などないのである。あまりいい例え話とは言えないが、ヤクザの世界だって一流は堅気には手を出しませんよ。渡世人と堅気の間に一線を画しているのが筋というもので、堅気相手に刺青を見せびらかしたり、暴力で脅すなんていうのはチンピラのやることです。
だから、得てして一人では何もできないヤツに限って、そういう行動をとることで自分を安心させているだけに過ぎないということをちゃんと教えてあげるべきだ。
教育委員会という意味のない団体はとっとと解散して、ちゃんとPTAという組織が本来あるべき姿に、そして、もっとコミュニティというか街全体で大人が子供達を見守る世の中になるようにしなければいけません。
勉強するだけに学校がある訳ではないんです。勉強だけなら学校は要らない、一人でも教科書と参考書と練習問題が充分あればいくらでもできます。学校というところは本来楽しいところです。少なくとも私はそれを知っています。そういう時代に一日も早く戻す必要があります。
日本のどこかで、今も一人で悩んでいる子供達がたくさんいます。明らかに裕福な時代になっているにも関わらず、空き地が無くなり、草野球や草サッカーもできなくなった代わりに、テレビゲームの世界と現実の世界の境目がなくなってきています。しかし、現実の世界はゲームのように簡単にリセットはできないし、一度、その人生を放棄してしまったら、最初からやり直すことはできないのです。
実際に自殺を考える子供達の中には生まれ変われると思っている子が結構いるようです。でも、生まれ変わるというのは、本人が少なくとも自分の人生を投げ出さなかった人だけに与えられるものです。大切な命を自ら放棄してしまった人に、再度与えてくれるほど神様はお人よしではないのですよ。死ぬ勇気があるくらいならば、その勇気をもっと可能性のある他のものに使ってみようじゃありませんか。
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